「れっきとした犯罪である」

http://homepage3.nifty.com/~bbf/18culture.html より

      • 被虐者心理の考察---  いじめとストーキング  

「いじめ」を国語辞典で引くと「苛(いじ)め」と表記されているが、最近の新聞やテレビでの苛め振りを見ていると、むしろ『虐(いじ)め』と表記する方が適当だろう。「虐め」は今に始まったものではない。昔からあったもので、私自身も小中学校時代に何度となく経験した。ただ、昔の虐めには子供っぽさがあったが、現代の虐めは大人びて異常である。
小中学校には子分を数名引き連れて、肩で風を切って歩いている餓鬼大将が一人や二人必ずいる。高崎山のボス猿の権力示威行為みたいなもので、餓鬼大将は子分の一団を統率するために弱い者を見付けては「いじめ」を行なうことになる。さもないと、親分の位から引き降ろそうとする動きが出て来る。あるいは、子分が離散し始める。
力を維持するためには、精神的な「虐め」でもよいし暴力行為や示威行為でもよい。力が示せればそれでよいのである。従って、「虐め」の対象は身体や精神が虚弱な者や、あるいは何かの面で自分より劣っていそうな者を選ぶ。具体的には、女性、下級生、知能の遅れた人、成績の悪い社員などが狙われる。自分より劣っていさえすれば、「虐め」の理由は要らないのである。
対象を選び間違えて自分と対等か上位の者を虐めようとすると、そこには必ず「対立」か「争い」が生じる。そして、必ず何らかの決着が付く。強者であり続けなければならない彼らにとって「決着が付く」ことはステイタス(地位)を賭けた死活問題となるので、争いの起こりそうな相手は避けて選ばない。強者対強者の間では双方が気を遣いあって「いじめ」現象は起こらない訳である。
従って、虐(いじ)めは、強者対弱者の関係の中にしか存在しない。一般的には、集団と個人の関係で起こるが、企業のような組織体の中では強大な権力者個人対弱者個人の間で起こることもある。
こうして、弱者である「虐め」の被害者は精神的ストレスを受け続けることになる。ストレスを長期間に渡って受け続けると、身体や精神に障害を及ぼす。そして、必ずどこかの時点で切れて、自衛行動、忌避行動、攻撃行動のいずれかの現象が顕れる。これを段階的に表わすと下記のようになる。
ストーカーに追いまわされる被害者の心理も同じようなものである。ストーカーには性的支配欲が根底にあり、虐(いじ)める側には力の支配欲が根底にある。支配欲という点でどちらも同一と見ることも出来る。そして、虐められる者とストーキングされる者の間には、持続的なストレスを被る者という立場で心理的共通点が見られる。
第一段階  加虐者の行為に対して起こす『誹謗(ひぼう)行動』。「嫌なことはしないで呉れ」とか、「あいつは嫌なヤツだ」といった言動が出る。親、友人、先生、警察等にそれとなく『庇護(ひご)』を求める。
第二段階  加虐者自身に対して『嫌悪行動』を取り始める。「顔も見たくない」、「口も聞きたくない」、「近くに来ただけで虫唾が走る」この段階でも『庇護』を求める。
第三段階  加虐者の行為あるいは加虐者そのものに対する完全な『無視行動』を取る。視線が合わないようにしたり、たとえ目が合っても視線を外して無視する。
第四段階  加虐者と遭わないように通行路を変えたりする『忌避(きひ)行動』を取る。あるいは喧嘩などの『暴力行動』を取ろうとするが、加虐者に力負けする。
第五段階  思い詰めた心理状態が外に向かったとき、自分が生きて行くためには加虐者に対して『殺戮(さつりく)行動』を取る。内に向かったとき、加虐者が生きている限り自分の未来はないと考え『自殺行為』に走る。
余りにしつこく嫌味を言われたり嫌がらせをされれば、どんなに穏やかな人でもいつか必ず爆発する。爆発の大きさと爆発までの時間は個人差があるが、それに至るまでの心理の過程は同じである。
第1段階の『庇護行動』の中に微かなシグナルが現れる。これを見落とさず救いの手を差し伸べ、積極的に取り締まられなければならない。被虐者神経症に陥ることもあるが、これはれっきとした犯罪である。