私は無神論者です。過去、神を信じようとしたこともありましたが、もともと信じていなかったせいか、信じない方が私にとっては自然でした。
でもこのあいだ偶然、出雲大社のサイトで日本を創造した神さまは、人々がみんな本来の姿でいられるように守ってくださっている神さまなのだと読んで、あぁいいな、と思いました。


旧約聖書を信じているカトリックの信者さんたちは、罪の意識にさいなまれていると聞きます。
貧民の味方キリストがあらわれ、新訳聖書は、旧約の厳しすぎを和らげる第一歩だったかななんて、ふと思いました。


愛は縛らない、とどこかで読んで、その通りだと思いました。
それが本来の愛の本質であるべきと思いました。


人々を罪の意識にさいなめる神さまに愛はあるんでしょうか?
宗教や神さまや…
厳粛で神聖なものは人間の理想かもしれないけれど、現実ではないのに、それに限りなく近いことを人々にあまりに強く求めるので、善人でありたいと願う人々は、
…うまくまとまらないけど、
縛られていると思う。
清らかであることに、みかけだけでも繕おうと、やっきになっている。
それができないと恥と感じてしまう。


そうじゃなくて、本来の姿でいればいいのだ、と言ってる、日本の神さまのほうが愛があることはたしかだと思う。

どう言っていいのか、よくまとめられないけど、
神聖なものに憧れたり、理想とすべきと感じて、清らかでいることが何より大事みたいになってる人がいたり、自己中心的にしか物事を考えられないような人が、それでも良い人間なんだと思ってほしさに神聖なものを信じていることをひけらかしていたり、もっと悪いことには、悪巧みする人間が神聖なものを口にして偽善者となっていることもありました。
人助けができない理由はいろいろあるだろうけど、「見返りを期待してしまうから、私にはできない」って、こんなことが理由なんじゃ、腹が立つというものです。清らかさを求めるあまり…? 何をいい子ぶってるんだ、と言いたいです。とんちんかん。
神聖なものを口にして清らかさをまとって逃げてる人たちって、ずるいですよね。